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新里たける Takeru Niizato / 2010年 福岡大丸アートギャラリーにて
新里たける TAKERU NIIZATO
※書きかけの項目です。
年表/Biography
1982年 2月22日 佐賀県武雄市生まれ。
芸術家の父眞紗生が大きな岩の上に建てた版画工房兼喫茶「山閑人」という一風変わった生活空間で育つ。庭の森と煉瓦の塀。店内には、手作りのテーブルと机、木版画と木彫りの小鳥達、骨董品の時計、赤いインド更紗のカーテン、ペルシャ絨毯、芸術の本など色々な物が置いてあり、白檀のお香がいつも焚かれていて、コーヒーの香ばしい香りと相まって独特さを増していた。大きな梁の上からバロックやジャズのサウンドが流れていた。
工房と部屋では、Enya、喜太郎、カーペンターズ、五輪真弓などが流れていた気がする。赤ん坊の頃は、R・クレイダーマンのピアノを聴くとすぐ寝てたらしい。
1歳になる前から絵を描き始め、3歳頃からはキン肉マンをよく描いていた。
幼少期より庭のレンガ積みを手伝わされた。まっすぐ詰むより大き小さいを組み合わせて少し歪ませた方が面白いと父より指導を受ける。綺麗なレンガはわざわざハンマーで角を落として味を出した。祖父は琉球で城の石組み職人をしていたらしい。
料理と花壇の花と草木の世話は母が担当。
1988年 6歳 小学校へ入学。夏休みに最初の恐竜図鑑を作る。
地下に存在する得体の知れない強大なパワーにうなされる。
1990年 8歳 小学三年の夏休み、日本一の絵を描くと張り切って組合プロパン絵のコンクールに応募し、全国特選。商品として貰ったウォークマンとクラシックのカセット、トンボの色鉛筆「色辞典」は以後の創造に非常に役に立った。翌年も同コンクール全国特選を受賞。
この頃の趣味は化石の発掘とレプリカ作り、恐竜図鑑作り、学術記事や論文を読むこと。本格的内容の恐竜の大型図鑑を買って貰い、ダグラス・ヘンダーソンの素晴らしいアートワークに触れる。同時期に映画「ジュラシックパーク」も公開され、同じタイミングで世界で初めてのリアルな恐竜の映像を見る。
テレビでは、ドラゴンボール、ジャッキー・チェンなどをよく観ていた。
学校からの宿題の日記と創作文、絵本作り、木工、演劇の企画は自ら進んで行なった。
初めての作詞作曲「並んだ足」を妹達に振付指導までして、家族に披露。
近所の友達と裏庭の森にツリーハウスを造る。
母方祖父が地元の祭りで篠笛を弾いているのを見て感銘を受ける。
祖父の家は伝統的な日本の住居で、餅つきや年中行事も積極的に行なっていた。泊まりの日に、まんが日本昔話を観るのを楽しみにしていた。
1994年 12歳 中学一年、初めてのCD、CHAGE&ASKA「HEART」を買う。
父がフォークギターとハーモニカで「朝日のあたる家」の弾き語りをしている姿に興味を持つ。
兄が喫茶店でこっそり流していた”たま”の「さよなら人類」と芸術新潮の裏に描いた緻密な落書きを見て刺激を受ける。
友達とほとんど遊ばず、家に帰って絵を描くか、模型を作っていた。唯一、樋渡君というクラスの優等生が絵の宿題を出してくれていたので、少しずつ画力が高まっていった気がする。
1997年 15歳 中学三年の冬、クラスの同級生らの影響で、絵から音楽に興味が完全に移る。最初に手にした楽器はストラトキャスター。
描き溜めた大量の絵と手作りの模型を処分する。
CD屋によく通う。90年代後期は世紀末でもあるせいかセピア調の渋いジャケットが多かった。
高校入試の前日にボン・ジョヴィとメタリカのCDを入手し、テンションが上がる。
翌日の面接で「世界に羽ばたきます」と漠然とした考えで言い放った。
同年春 高校の窯業科に入学し、迷わずブラスバンド部へ入部。
自宅裏庭に父が陶芸窯の窯築準備を始める。兄と母型祖父も作業を手伝う。
兄がキャロルのコピーバンドで使っていたヤマハのドラムセットを譲り受ける。
父がバンド時代に所有していた大型のスピーカーを4台譲り受け、天井まで積んで、高校生が普段聴くことのないであろう重低音を再生していた。ブラックミュージックとメタルを交互に聞く日々。
高校一年の夏、ドラムと自身のバンド活動を始める。
夏休みにエレキギターを手作りする。
ポータブルキーボードで作った曲をカセットテープに録音。
ブラスバンド部で楽譜の読み方と大体の打楽器の扱いを覚える。
帰り際、部室のアップライトピアノでバッハを毎日弾いていた。ジャズも少しずつ練習し始めた。
冬の定期演奏会では、打楽器数名によるアドリブの演奏が好評であった。実は全員が楽譜を覚えていなかっただけという…
1998年 先輩達のロックバンドに加入。吹奏楽部を辞める。
当時ビジュアル系バンドの大全盛期で、同時にパンクやメロコアが流行り出していた。
高校時代は絵をほとんど描かなかったため、画力は美術部学生たちからどんどん追い抜かれていった。
この頃一斉を風靡したゆずの影響で路上でのギターの弾き語りが爆発的に流行り出す。
負けじとE・クラプトンなどの弾き語りを猛練習。指先が切れてアロン・アルファで固めていた。
高校からの帰りに本屋で掘り出し物のCDを発掘するのが日課であった。通学の電車の中で一人、MDウォークマンの音楽と移り行く風景を重ねていた。
成長期であるにも関わらず、毎日ギター練習のため夜更かしをしていた。おかげで高校に入って身長が1センチしか伸びなかった。
1999年 学校では授業を真面目に受けず、隣のデザイン科と行ったり来たりしていた。美術部にお邪魔して活動に参加させていただく機会を得る。
相変わらず頭の中では主に音楽のことでテンションが上がっていたが、スポーツや勉強では周りにどんどん差をつけられ、クラスの同級生との遊びにも馴染めず、しょんぼりしていた。クラスの女子達に励まされていた。帰りにカラオケに行きJ-Pop歌謡を真剣に練習していた。
学校を休み、陶芸家濱崎節生氏の窯焚きを体験。灯油窯を譲り受ける。
夏休み、造形大学の体験入学中、ノストラダムス大予言のいはゆる”7の月”は何も起こらなかった。
体育祭で大型パネルの制作。応援の太鼓を叩く。
文化祭ではブラフマンのコピーバンドでドラムを演奏。それ以降多数のバンドを掛け持ちする。
リアルパンクの先輩達はプロを目指し上京、自分は地元のライブハウスによく通っていた。
できれば行ってみたかった造形大受験をキャンセル
2000年 高校卒業
2001年 暮れ 同級生の川添恭梓朗らとG.zero-Stanceというヘヴィネス系のロックバンドを結成。ドラムはシンプルな3点セット。
2002年 20歳 バンド活動に明け暮れる。伊万里市民会館を貸し切ってライブイベントを主催。音源の制作など。
2003年 ドラムに必要とされるパワーが増していく。バスドラムのペダルをツインに変更。手の皮が破れ流血するのでグローブを装着した。菅沼孝三の教則ビデオや、スリップ・ノットのドラミングを参考にしていた。
ライブハウス佐賀Geils、福岡CBGBを拠点に、毎週のようにライブを行い、時折、山嵐、10-FEETなどプロの前座などもさせて貰いながら技を高め合っていった。モンゴル800の高里さんとは親戚らしいが、まだ会ったことは無い。
バンドと旗振りの仕事との掛け持ちで肉体的に苦しい日々が続く。難聴が進行し、おまけに借金も増えて生活が苦しくなる。
2004年 遂にバンドを辞める。
耳は聴こえないが平穏な日々が始まる。
花畑でお弁当を食べる。
造園土木業、小料理とバーテンの仕事を経て、家業のカフェ業務に専念。弾き語りの常行鉄平さんや永積タカシさんらとの出会いもあり、音楽の見方が変わる。
2005年
陶芸を始める。香炉や陶人形、食器の製作に励む。
陶器市に出品。幸せ招きシーサーや、分福茶香炉が地味にヒットする。
2006年 唐津焼、美濃焼で使われる釉薬の研究を始める。
手作りの手回しオルゴール「オルガニート」の製作。
陶芸と並行して、MTRを使った音楽の制作も進める。
過去の借金の整理を始める。
耳が徐々に回復。久しぶりに昔聴いていたBen Folds Fiveの音楽に触れ、自分も「人を感動させる音楽を作ろう」と強く決意する。
ドラムからピアノに移行。
自宅での練習が難しいため、ダットサントラックに電子ピアノを積んで、夜中でも近くのダムに行って練習をしていた。
ドラムとピアノをベースとした音楽の作詞作曲とレコーディングに本格的に取り掛かるが…
2007年 25歳 二度目の突発性難聴により、無音の世界となった。
難聴治療のため病院に入院。入院初日から死者の声が聞こえるようになる。
絶望していた時に見た夢の中で一匹のクマノミが「絵を描きなさい」と耳元でささやいた。その光景をスケッチとして描き留めた。後にCDのジャケットにするつもりで退院後100円ショップの白いキャンバスボードを買い、アクリル絵の具で描いた。
難聴と目眩で外での仕事が難しく、家業のカフェ業務と陶芸を並行して行う。
陶器市などで自身の作品を出展。釉薬と茶陶(侘び寂びと無作為)の研究を2年ほど行う。バケツの山ができる。
2009年 韓国の事業家の方の勧めで大丸美術部長らが工房の陶芸作品を観覧に訪れる。たくさんある陶芸作品の中に1枚だけ置いていたクマノミの絵に目を止めて頂き、「若いうちはデザイン的な絵の世界で広げていった方が良い。茶陶は年を取ってからでも良い。」とアドバイスを頂く。
陶芸から急遽絵をメインに変更。これをきっかけに油彩画の制作を本格的に始める。
2010年 28歳 初個展 新里 猛『幻想世界』展を大丸福岡アートギャラリーにて開催。油彩画、陶芸作品を多数出展。BGMも使用
2011年 アトリエ構築
2015年 結婚
2016年 色と音階の変換装置を考案
2018年 アトリエに突然訪ねて来たブラジル出身音楽家ブレンダさんの強い要望で音楽のワークショップに参加。役10年ぶりに楽器を演奏する。以前より聴力は回復したものの、僅かな音程を聴き取ることが難しく、できる方法を模索する。ドラムはジャズキットをベースに、BOSPHORUSの薄いシンバル、YAMAHAのウッドフープ、REMOのファイバースキンヘッド、ジェフ・ハミルトンのブラシなどを組み合わせ、深みを出しつつ耳に有害な倍音をカット。
2019年 北欧雑貨NORREPORTにて絵画、ポスターなど常設展示販売開始。ポスターやグッズの生産に取り掛かる。
2021年 佐賀北高で「幻想絵画を描く方法」について講義。自分の作品作りのあり方を見つめ直す。
佐賀県立美術館とハウステンボスに個展の企画書を提出。一般的ギャラリーでの展示と異なる、空間全体として印象に残る展覧会の演出を計画。
2022年 父の作品(杵島山一刀彫カチカチ車)が「ミロ展」にてミロ旧蔵品として各地を巡回、調査と資料の作成に2ヶ月間を要する。当時の民芸運動やミロ、ピカソ、バーナード・リーチとの繋がりを知る。
同年11月 40歳 12年ぶりの個展 新里たける油彩画展~画家のアトリエ~を、佐賀県立博物館・美術館併設 岡田三郎助アトリエにて開催。
イーゼルや絵画備品を使ったアトリエ風の展示。難聴前に作ったBGMも使用。
2023年 2月~4月 41歳 新里たける油彩画展~幻想美術館~を、長崎ハウステンボス美術館3階にて2ヶ月間に渡り開催。大きな三つの部屋に異なる特色を持たせ、油彩画など100点以上を出展
絵とBGMのコラボレーションの要望を多く頂き、新曲レコーディングの準備も予定しているが、注文分の絵の制作が追いつかず、現在に至る。